引用元: 「【倉稲魂命】稲荷信仰霊験スレ 第6社【荼枳尼天】」より
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/kyoto/1388308620/
806: 名無しさん@京都板じゃないよ 2015/05/28(木) 19:06:31.35 .net
なぜ昭和になって急に東伏見稲荷ができたんでしょう?

807: 名無しさん@京都板じゃないよ 2015/05/28(木) 19:12:07.64 .net
伏見稲荷の分社を建てるなら
もっと昔から有ってもよさそうなのにといった意味です。

809: 名無しさん@京都板じゃないよ 2015/05/28(木) 23:04:53.63 .net
>>807
江戸には関東稲荷総司の王子稲荷があったから。

それに当時、伏見から稲荷勧請する理由は「正一位稲荷大明神」の神号を得るためで、
分霊を祀る分社では「正一位」は出せないので、建てても余り意味は無い。
当時は、神様(特に稲荷など)は信者がけっこう勝手に祀っていた。神社から勧請しなきゃまがい物みたいな感じになったのは明治以降。

明治政府の陰謀?で王子稲荷が衰退し(これ程の神社が無格社だったのは、何らかの「意思」が働いたはず。順当なら府社ぐらい)
伏見稲荷の分社を求める声が強くなったのでは。

810: 名無しさん@京都板じゃないよ 2015/05/29(金) 11:24:03.39 .net
なるほどねぇ。勉強になるわぁ
王子稲荷も当時の賑わいがあったらよかったのにねー
浮世絵にも残ってるし、大晦日の狐の行列もあるんだし
ほんと勿体ない。。。。

811: 名無しさん@京都板じゃないよ 2015/05/29(金) 23:16:05.02 .net
>>809
解りやすい説明ありがとうございます。

812: 名無しさん@京都板じゃないよ 2015/05/30(土) 10:49:47.14 .net
>>810
二月の午の日に開かれる凧市と大晦日の狐の行列では、
往時の賑わいを偲ぶことができるよ

815: 名無しさん@京都板じゃないよ 2015/05/30(土) 17:39:21.99 .net
>>806
昭和の時代に東伏見が出来たのは、ぶっちゃけて言えば西武鉄道による
地域開発の一環として勧請されたという部分が大きいだろうな。

むろん関東信者の熱意によってという由緒の言葉も嘘じゃなかろう。
明治くらいまで江戸や東京の人は、お稲荷さんは本宮こそ伏見だけど
「信心の本場はこちとらでい!」くらい思っていたかもしれない。
それくらい大小の稲荷社が多くて王子なども賑わっていた。
でも気楽に国内を旅行できる時代になると伏見大社を参拝して
本家の魅力に惹かれ、東京にも大きな分社が欲しいと望む人が増えた、
というのもあるんじゃないかな。

あと、大社の側としても人や情報の行き来が盛んになってきたことで
一度ここらでとかく狐信仰と誤解されやすい稲荷への偏見を正したく思い
(関東には狐が縁起の社も多いので ^^;)
首都圏に狐縁起や寺との因縁もない立派な分社をデーンと建て、
新しい時代に向けて啓蒙の拠点にできたら何よりだと思ったろう。
増加した伏見信者、大社側の思惑に西武鉄道というスポンサーが乗ったので
遅ればせながら昭和の大勧請になったのではないかと思う。

816: 名無しさん@京都板じゃないよ 2015/05/30(土) 17:50:54.42 .net
ヒィー!
まさか西武鉄道がからんでいたとは。。
だったら東伏見駅からズドーンと参道作ってほしかったな。笑

817: 名無しさん@京都板じゃないよ 2015/05/30(土) 19:03:33.81 .net
あそこはたしか土地も丸ごと西武の無償貸与なんだよ。
(だから境内を幼稚園に貸さなくてもやってける)
でもさすがの西武も駅から参道通すほどの土地や権力はなかったと見える。
方向的にも線路は神社の北側(背側)なので難しいし。

余談だが西武ライオンズの選手は東伏見ではなく、
東武東上線沿線の箭弓(やきゅう)稲成神社に戦勝祈願に行くのだ。
バットの形の絵馬とかあるからね。

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